『古代ローマのカンプス・マルティウス』(1762刊)は、G・B・ピラネージ(1720-78)による古代ローマの考古学的な調査報告書。ラテン語とイタリア語からなるテキストと、48枚の図版からなる。カンプス・マルティウスとは「軍神マルスの野」を意味するローマの地域の名称で、カンピドリオの丘やテヴェレ川などに囲まれた低地を指す。ローマ建国当初の王政期には放牧地でもあったが、次の共和制期には軍事訓練などにも使われ、以後、新市街地として帝政期のローマに渡って発展した。すべての神々を祀る神殿のパンテオンや、ドミティアヌス帝の競技場(現ナヴォーナ広場)、マルケルス劇場、アウグストゥスの廟などの遺跡が今でも残るが、その他に浴場や列柱回廊、日時計といった壮麗な公共施設群や記念碑、居住施設などが建設されていた。
そうしたローマ帝国の最後期のカンプス・マルティウス地区を、創造的に復元したのが「イクノグラフィア」と呼ばれる大型図版である。これが描かれた18世紀当時、すでに古代の遺跡はわずかしか残されていなかったが、ピラネージは、その空白部分を、ありとあらゆる平面形態で埋め尽くした。ローマ帝国の滅亡後、中世のローマは衰退し、壮麗だった建築群も荒廃する。しかし、ルネサンスという古典復興の気運の中、16世紀頃には再びローマは、建築・美術の中心になっていく。17世紀には、現在でも見られるようなバロック都市の様相を見せていくが、18世紀は、より正確な古典の研究、考古学が始まった時代でもあった。そうした時代の中、ピラネージは、新たな古典の価値を見いだすような新古典主義への一つの方向を示した。
ピラネージは、卓越したエッチングの技術を持つ版画家であり、考古学の研究者、建築家でもあった。生涯で、1000枚近くともいわれる銅版画を制作し、「空想の牢獄」などの幻想的な光景も生み出した。とりわけローマの景観のイメージは、ピラネージの版画作品において強く印象づけられてきた。文豪のゲーテは、ピラネージの描いたローマに親しんでいたために、19世紀のイタリア旅行では現実のローマに失望するほどでもあり、20世紀の建築家ルイス・カーンは、この「イクノグラフィア」を参照し続け、励みとしていたという。